เข้าสู่ระบบ長身の美しい造形に、不似合いな幼い言葉だった。
その声を聞いた瞬間、俺の思考が止まる。 「……おまえ、名前は?」 「なまえ?」 首をかしげて、きょとんと見上げてくる。 「──自分をなんて呼ぶか、知らないのか」 「しらない。でも……きみの声、すき」 「……俺は音瀬。音瀬 遼だ」 「おとせ……りょう……」 音の響きを確かめるように呟いたあと、彼は目を細めた。 「いいおと……からだのなか、ぽかぽかする……」 「──おまえは、なんだ」 問いかけに、彼は少し首を傾げ、にこっと笑った。 「……ぼく?」 「おまえ以外に誰がいる」 俺の胸に指を当てて、彼はぽつりと言う。 「おなか、すいた。……ここ、すき」 「質問に答えろ」 「わかんない。でも……きみのそば、いい」 甘えるような声音に、俺の眉間がぴくりと動いた。 「なんで俺に……なつく?」 「なつく?」 また首を傾げ、きょとんとした顔。 「それ、なに?」 ……通じているようで、どこか噛み合わない。 「……いや、なんでそんなに俺のそばがいいのかってことだ」 彼は、俺の腕に巻かれた腕輪に、そっと触れた。 「──きみが、ぼくを、ひろった。だから」 いろいろと訊いてみたが、 結局わかったのは、それだけだった。 俺が拾ったから、彼はここにいる。 それ以上のことは、彼自身もわかっていない。 あるいは──本当に、そうなのかも不明だった。 俺は一度、スマホを手に取った。 通報すべきだ。常識的に考えれば、それが正しい。 だが、彼はそのスマホを見た瞬間、怯えたように目を見開いた。 「やだ……やだ……きみ、いっちゃう……やだ……」 泣き声のような声が、胸の奥に突き刺さった。 そして、画面に表示されたのは──「圏外」の文字。 普段なら問題なく繋がるはずの場所だ。 (たまたま?) (まさか、この男が何か……?) (いや、そんな非科学的な) だが、気づけば俺は、スマホをテーブルに置き、そっとため息をついていた。 「……仕方ない。今夜だけ、様子を見る。明日になっても状況が変わらなければ……そのときは、ちゃんと届ける」 だが彼は、そんな俺のつぶやきすら聞いていないように、ほっとした顔をすると、裸のまま俺に抱きついた。 ……なんだ、この状況は。 わからないことだらけだ。 だが、あの金色の瞳が俺を見下ろして無邪気に笑った瞬間、胸の奥がまた、きゅっとした。 ──まるで、何かを思い出すみたいに。 *** 夜半過ぎ。 あのでかい子供に飯を食わせ、俺はシャワーを浴び、リビングで資料をまとめ終えると、ようやく寝室へ向かった。 敷いておいた毛布はそのまま、俺のベッドの上に──何かの気配。 「……おい、そこ俺の寝床……」 布団をめくると、彼がぐっすりと俺の枕を抱きしめて眠っていた。 顔を埋め、身体を折り曲げ、俺の匂いに包まれて、安心しきった表情で。 「ぬくい……きみのにおい、すき……」 俺は軽くため息をつき、空いた布団の隅にそっと寝転んだ。 ──どれくらい経ったろうか。 胸元に柔らかなぬくもりを感じて、目を覚ました。 「……ん……な……」 彼が、俺の胸に顔をうずめている。 そして、明らかに──俺の乳首に吸い付いていた。 「おい……やめろって……っ」 言葉は、息混じりにかすれる。 ちゅ、ちゅっ……ちゅっ、ちゅ…… 小さな音が、暗い寝室にやさしく弾む。 舌先がゆっくり乳首の先を転がし、唇が何度も優しく吸い上げる。 「……っ、ふ、ぁ……や、やめ……」 吸い付くたび、熱の輪が胸の奥に広がっていく。 彼は子どものような、無邪気な表情のまま。 俺の片方の乳首に夢中で吸い付き、もう一方の手で胸元を撫でてくる。 指先が、布越しにやわやわと撫で、時折、爪先が軽く触れる。 ちゅっ……ちゅっ……じゅる…… 無心のまま乳首を探し当てて、吸って、転がし、また吸う。 「や……っ……は、離せって……っ……」 彼の足が、俺の太腿に絡みついてくる。 温もりが絡みつき、吐息が胸にかかる。 「きみ、ぬくい……すき……もっと……」 その声は甘えた子どもの寝言みたいに小さく、でも確かに求めている。 俺の乳首をひとしきり吸ったあと、今度は舌先で円を描き、またちゅっと啜る。 乳首が熱く、じんわり硬くなっていくのを自覚してしまう。 息が上手く吸えない。 理性の端がじりじりと削られていく。 なのに彼は、ただ安心したように俺に縋りついて、幸福そうにちゅっちゅと吸い続けるだけだった──。 けれど俺の脳裏には、あの遺跡の裂け目の奥で感じた、得体の知れない気配が残っていた。 まるで、見えない何かが──今もこの部屋を見下ろしているような。 無垢なふりをした彼の身体の奥で、それは静かに息を潜めているのかもしれない。 「……お前は、いったい、何を連れてきたんだ」 自分の胸に頬を寄せて眠る彼を見下ろしながら、俺は小さく、誰にも届かない問いを呟いた。熱の底で、遼は何かを追いかけていた。 金色の光みたいなもの。 あたたかい手。 胸の奥がぎゅっと痛くなる感じ。 それが何なのか、どうしてこんなに苦しいのか、もうわからない。 目を開ける。 見慣れた天井だった。自分の部屋だとわかるのに、身体が鉛みたいに重い。 襖の向こうで、声がした。 「遼のことは問題じゃない。分霊が消えた。それが問題だ」 父の声だった。 遼は息を止めた。 分霊。 知らないはずの言葉なのに、その響きだけが妙に胸を刺した。 「問題じゃない?」 栄子の声が、低く震えた。 「目を覚まさないのに?」 「戻ったなら十分だ」 「十分なわけないでしょ」 短く、鋭い声だった。 「遼は連れていかれかけたんだよ。 消えたのがそっちじゃなくて、遼だったかもしれないのに」 父は少しも揺らがなかった。 「その方がよかった。〈天〉を失った今、この家は終わる」 その言葉に、遼の胸がまた痛んだ。 何を失ったのかはわからない。 でも、自分より大事なものがあるのだと、父は言っている。 「……最低」 栄子が吐き出すように言った。 「こんな家、終わっていいよ」 「音瀬の者ならわかるはずだ」 「わかりたくない」 ぴしゃりと返る。 「私は家のためじゃない。遼のためにやったの」 その声だけが、熱の中の遼にははっきり聞こえた。 遼は布団の上で、そっと指を握る。 何かあたたかいものに触れていた気がした。 大事だった気がするのに、思い出そうとすると、輪郭はするりと逃げていく。 気づくと、目の端から涙がこぼれていた。 熱い涙だった。 頬を伝って、枕へ落ちる。 どうして泣いているのか、自分でもわからない。 ただ、もう二度と触れられないものがある気がして、胸の奥がひどく痛んだ。 *** あの日から、長い時間が過ぎた。 シーツの熱が、まだ肌に残っていた。 遼は佐伯の腕の中で浅く息をつきながら、ぼんやりと天井を見ていた。 身体の奥はまだ少し痺れているのに、不思議なくらい心は静かだった。 佐伯の指が、遼の髪をゆっくり梳く。 その手つきは、さっきまでの熱とは違って、ひどく優しい。 「……寝る?」 低い声が耳元に落ちる。 「んー……まだ」 答
最初のうちは、窓の外にも見慣れた景色が流れていた。 閉まった店の灯り、途切れがちな街灯、黒く沈んだ家並み。 けれど、いくつか駅を過ぎたあたりから、遼は小さく眉を寄せた。 こんな線路だっただろうか、と思った。 窓の外が、妙に暗い。 ただ夜だからというだけじゃない。遠くにあるはずの家の灯りが見えず、木立ばかりが続いている。しかも、その木々は風もないのに、ときどき水の底みたいにゆらいで見えた。 隣で、アマはじっと窓の外を見ている。 「……アマ」 「うん」 返事はいつもどおり穏やかだった。 けれど、その横顔を見た瞬間、遼の胸の奥がまたきゅっとする。 アマは、知っているのだと思った。 この先へ行くことを。 この景色がどこへつながっているのかを。 電車がトンネルに入る。 窓の外が真っ黒になった。 その瞬間、車内の灯りがひとつ、ふっと明滅する。 遼は思わずアマの手を握り直した。 すぐそばで、アマが遼を見る。 「こわい?」 遼は少し迷ってから、小さく頷いた。 「……ちょっと」 アマは怒らなかった。 笑いもしない。 ただ、遼の手を包みこんで、静かに言う。 「だいじょうぶ」 その声に、また胸がきゅっとした。 怖いのに、うれしかった。 その手があるだけで、行ける気がしてしまうのが、いちばん怖かった。 長いと思ったトンネルは、音もなく終わった。 けれど、抜けた先の景色を見て、遼は息を呑んだ。 知らない駅だった。 ホームは古く、灯りは青白い。 看板らしきものはあるのに、字が読めない。読めるようで読めない、見ていると形だけが崩れていくみたいな文字だった。 窓の外には、黒い森が広がっている。 その向こうに、どこか見覚えのある山の影があった。 神根だ、と、なぜか遼は思った。 扉が開く。 外の空気はひどく冷たかった。 夏の夜のはずなのに、そこだけ季節が違うみたいだった。 アマが立ち上がる。 「ついた」 その声は、うれしそうだった。 遼も立ち上がりかけて、ふと動きを止める。 ——いや。 神根遺跡は、もっと遠いはずだ。 電車を何本も乗り継いで、それでも最後は山道を行かなければ着かない。 こんなふうに、夜の電車に少し乗っただけで
それから半年ほど、遼は何度も離れへ通った。 最初は水と干菓子を持っていくだけだった。けれどそのうち、庭で拾った石や、折った草の葉や、書庫でこっそり覚えた言葉まで持っていくようになった。アマは少しずつ人の言葉を覚え、遼の来る時間になると、障子の向こうでじっと待つようになった。 遼も、ただ会いに行っていただけではなかった。 何度か言葉を交わすうちに、アマが「かみね」から来たのだとわかった。それが神根遺跡のことだと気づいた頃には、もう季節が二度変わっていた。 父の本棚から地図帳を出して、神根の字を何度も指でなぞった。裏門から駅までの道を頭に入れ、庭師が話していた山道のことも覚えた。缶にしまってあったお年玉を何度も数え、これだけあれば二人で電車に乗れるだろうかと真剣に考えた。 子どもの考えることだから、きっと抜けだらけだった。 それでも遼は本気だった。 秋が深まるころには、アマに触れられるたび、遼の体にはもうはっきり変化が残るようになっていた。手首を掴まれればそこから熱がひろがったし、肩に指が触れるだけで、胸の奥や下腹のあたりが落ち着かなくなった。 なんだろう、これ、と何度も思った。 でも嫌ではなかった。困るのに、次もまた触れてほしいと思ってしまうのが、いちばん困った。 その日、遼は離れの座敷で膝の上に手を置いたまま、小さく息を吸った。「……きょう、いこう」 アマが金の瞳を上げる。 遼はどきどきしながら続けた。「調べたんだ。駅まで行って、電車に乗れば、神根の近くまで行ける。お金もある。たぶん、行ける」 アマは黙って遼を見ていた。 その視線に見つめ返されるだけで、遼の胸はまた少し熱くなる。「ほんとは、たぶん、だめなんだと思う。姉さんも変なこと言ってたし、見つかったら怒られる」 そこまで言って、遼は唇を結んだ。「でも、きみをここに置いていくの、もういやだ」 しんとした座敷の中で、アマがゆっくり瞬きをする。「……きみ、かえる?」 アマは遼を見て、それから小さく訊いた。「いっしょに、かえる?」 遼は息を止めた。 返してあげる、とは言った。 けれど、一緒に帰るつもりだっただろうか。自分の家はここで、学校もあって、母も姉もいる。そのはずなのに、アマの金の瞳を前にすると、「ちがう」と言うのがひどく怖かった。「……」 少しだけ迷っ
翌日の午後、遼は小さな水差しを抱えて離れへ向かった。 怖くないわけではなかった。姉に言われた言葉も、まだ胸のどこかに引っかかっている。けれど、それよりも、もう一度あの金の瞳を見たい気持ちのほうが強かった。 障子の前に立つと、昨日と同じように空気がひやりと変わった。夏の終わりの庭の匂いが遠のいて、古い木と畳の冷たい匂いだけが残る。 遼は小さく息を吸って、障子を開けた。 その人は、昨日と同じ場所にいた。 淡い金の髪が肩から背へ落ちて、薄暗い座敷の奥でじっとしている。けれど遼の顔を見た瞬間、金の瞳がほんの少しだけひらいた。 「……きた」 低い声だった。 その声を聞いた途端、遼の下腹の奥が、きゅう、と縮んだ。 嫌なような、でも少し甘い痺れが走って、遼は思わず息を止める。 なんだろう、これ、と思った。 「……うん。お水、持ってきた」 座敷へ上がって差し出すと、その人は不思議そうにそれを見たあと、そっと両手で受け取った。飲み方は少しぎこちなくて、喉が上下するのを見ていると、本当に喉が渇いていたのだとわかる。 昨日、戻れなかったことが急に申し訳なくなって、遼は膝の上で手を握った。 「……ごめん。昨日、戻るって言ったのに」 その人は水差しを抱いたまま、少し首を傾げた。 「きたから、いい」 それだけで許されるのが、かえって困る。遼はますます胸の奥が落ち着かなくなった。 しばらく黙ってから、遼はぽつりと訊いた。 「なんで、きみはずっとひとりでここにいるの」 その人は少し考えるみたいに目を伏せた。 「……まえは、ひとりじゃなかった」 「じゃあ、なんで」 金の瞳がゆっくりと遼を見る。 「ついてきたら、かえれなくなった」 遼は息を止めた。 うまくわからない。誰に、とは聞けなかった。でも、その言い方がひどく寂しくて、遼は胸の奥がきゅっとした。 「きみ、名前は?」 その人は少し首を傾げた。 「なまえ?」 「うん。きみのこと、なんて呼べばいいの」 しばらく黙っていたあと、その人はゆっくり首を振った。 「……ない」 遼は目を瞬いた。 名前がないなんて、そんなことあるのだろうか。犬にも猫にも、庭の鯉にだって名前はあるのに。 「……ないんだ」 思わずそう言うと、その人は何も答えなかっ
「……だいじょうぶ?」 変なことを聞いた、と遼は言ってから思った。 相手は少しまばたきをして、それから、ほんの少し首を傾げた。 「……だいじょうぶって、なあに?」 遼は息を止めた。 その返しが変だった。 言葉の意味が通じていない、というより、その言葉が最初からこの部屋にはないみたいだった。 ぞわ、とまた背中が粟立つ。 やっぱり、まずい。 ここにいてはいけない気がした。 遼は思わず一歩だけ後ずさった。廊下へ出て、大人を呼んだほうがいい。そう思うのに、相手の金の瞳がじっとこちらを見ていて、うまく足が動かない。 「えっと……つらくない、とか。いたくない、とか……そういうの」 説明しながら、自分でも何をしているのかわからなかった。 相手は黙って聞いている。 その顔が、綺麗なのにひどくわからなくて、遼はまた少し怖くなる。 やっぱり帰ろう。 今度こそそう決めて踵を返しかけたとき、相手がそっと手を伸ばした。 大きな指が、遼の手首を包む。 びくっと肩が跳ねた。 強く掴まれたわけではなかった。振り払おうと思えば、たぶんすぐにできた。 けれど、その手は思ったより温かくて、遼は一瞬、息を止めた。 人の手の温かさとは少し違った。 火みたいに熱いわけでもないのに、触れられたところからじんわり何かが染みてくるようで、手首の内側が落ち着かない。 「……いかないで」 掠れた声が落ちる。 その声が、あまりにも寂しそうだった。 遼は息を止めたまま、掴まれた手首にそっともう片方の手を添えた。 振り払うというより、傷つけないように指を外していく。 大きな手は、少し名残惜しそうに、けれどあっさり離れた。 「……すぐ、戻るから」 そう言って、遼は座敷を出た。 けれど、結局その日、戻ることはできなかった。 水を持っていくつもりだったのに、離れを出た途端、急に怖くなった。誰かに見つかることも、この家の言いつけを破ったことも、あの金の瞳にまた見つめられることさえも、急に現実味を帯びたからだ。 それでも、掴まれた手首のあたたかさだけは、いつまでも消えなかった。 *** その夜、遼はなかなか眠れなかった。 目を閉じるたび、離れの暗い座敷と、あの金の瞳が浮かぶ。 怖かったはずなのに、
音瀬家の子どもは、離れのいちばん奥に近づいてはいけない。 遼は、小さい頃から何度もそう言い聞かされてきた。 夕方から先は行くな。 鈴の音がしても、呼ばれたと思うな。 見ても、知らないふりをしなさい。 理由を聞いても、大人たちは誰も答えなかった。答えないくせに、その話になると、みんな少しだけ声をひそめた。障子を閉める手つきまで、どこか急いでいた。 だから遼も、離れの奥には口にしてはいけない何かがいるのだと、なんとなく知っていた。 その日も、夕方の縁側から使用人が膳を運ぶのが見えた。白い飯、湯気の立つ汁物、季節の菜。けれど、それはいつもほとんど手つかずのまま下げられる。 どうして食べないのだろう。 どうして誰も、そのことを気にしないのだろう。 気になって、遼は庭へ下りた。 石畳はまだ昼の熱を残していたのに、離れに近づくにつれて足元の空気だけがひやりと変わった。夏の終わりの夕方だった。蝉の声も、母屋のほうの話し声も、そこだけ薄い布を一枚かけたみたいに遠くなる。 離れの前に置かれた膳は、そのままだった。 汁の表面に張りかけた膜が、時間の経ち方を見せている。 そのとき、奥で鈴が鳴った。 ちりん。 遼の肩がびくっと揺れた。 細い音だった。高くも低くもないのに、耳ではなく、背中の真ん中に直接落ちてくるみたいな鳴り方だった。 もう一度、ちりん、と鳴る。 呼ばれている気がしたわけではない。 けれど、誰かがそこにいて、じっと息をひそめているのだとわかってしまった。 行ってはいけない。 見ても知らないふりをしなさい。 頭の中で祖母の声がした。 それなのに、遼はその場を離れられなかった。 怖い。 なのに、どうしてか胸の奥が妙にざわつく。逃げたいのとは少し違う、もっと落ち着かない感じだった。障子の向こうにあるものを見なければ、今夜は眠れない気がした。 遼はそっと縁に手をかけた。 障子紙は夕方の光を薄く吸って白く光っていた。近くで見ると、桟の木は古く、指先にざらりと毛羽立っている。 その白さの向こうに何かいると思うだけで、ぞく、とした。 開けたらいけない。 ここを開けたら、何かが変わる。 そんな気がしたのに、指は離れなかった。 ほんの少しだけ。 中を見て、
「……ほんとにつながったのかよ」 佐伯が俺の隣で、ぽつりとつぶやく。 俺は一歩踏み出そうとした。 それを察したように、佐伯が問う。 「行くのか?」 「ああ。行かなきゃアマに会えない」 佐伯は、何かを言いたそうに口を開いた。 でも、何も言わなかった。 風が、静かに吹き返す。 境界が、俺を呼んでいる。 「……遼」 俺は足を止めて、振り返る。 佐伯が立っていた。 手も出さず、ただそこに。何も言わないのに、全部伝わる表情だった。 「……ありがとう、佐伯」 「……っ」 もしかしたら、佐伯と会うのももう最後かもしれない。 言いたいことなんて、山ほ
熱が引いていくように、俺の中の何かが、少しずつ、冷静さを取り戻していた。 研究室の空気はいつもの通り無機質で、ただ隅で淹れていたドリップコーヒーの香りだけが、やけに馴染んでいた。 佐伯が、紙コップを俺の前に置く。 「……落ち着いたか?」 「……ああ。悪かった、いろいろ」 ぼそりと呟くと、佐伯は小さく笑って、椅子をくるりと回転させた。 「お前、あんなふうに泣くんだな。ちょっと意外だったわ」 その言葉に、少しだけ視線を下げて── 一瞬だけ、口にするか迷って。 けれど、いまなら言えると思った。 俺は、静かに口を開いた。 「……お前のときだって、あんなふうに泣い
アマが消えて、一週間目。 俺は、神根遺跡を訪ねることにした。 夜の国道を抜け、ナビに載らない山道を進む。 アマが何気なく話していた「根」のある場所。 「いつか一緒に行こう」と笑っていた、その場所に、俺は一人で来た。 ここで──あの時、腕輪を拾った。 岩の裂け目に落ちていた、異様な金の光。 触れた瞬間、掌がじんと熱くなり、 どこか遠くで鈴が鳴ったような気がした。 あの夜、家に帰ると──あいつがいた。 もし……アマとまた会える場所があるとしたら、ここしかない。 そんな気がした。 フロントガラスの外、街灯のない夜が続く。 音もなく降
毛布を肩にかけ、目をこすりながらふらりと現れたアマ。 金色の瞳が、俺たちの姿をとらえた瞬間、わずかに見開かれる。 「……おまえ、なんでリョウにさわってるの?」 その声は無垢で幼いのに、鋭く、ひやりとする温度を孕んでいた。 佐伯は一瞬、肩を揺らしたが──頬についた血を指先ですくって見下ろし、ふっと笑った。 「ほお……起きたか。すげぇな、お前……」 ニヤリと口元を歪める。 「人間じゃねぇっての、マジっぽいな」 「リョウをいじめちゃ、だめ」 アマが近づくと、俺を後ろから抱きしめた。 潤んだ瞳で、俺をじっと覗き込んでくる。 それにうしろめたさを感じて、俺は視線を







